満員電車に乗りたい!という人は、稀でしょう。
誰もが乗りたくない満員電車。
満員電車は、体力的、精神的な疲弊、ストレス負荷がもたらされます。
しかし、満員電車に乗るべきでない理由は、肉体的、精神的疲弊というそんな一時的な理由だけではありません。
満員電車と思考形成
いきなり、結論です。
習慣的に、満員電車に乗る事により、人格や身体性が形成されます。
これが、満員電車に乗るべきではない大きな理由です。
普段の通勤者にとって、主たる目的は会社での仕事で、満員電車はあくまで、会社に行く為の手段と考えられています。
しょせんは移動手段と軽視されがちですが、毎日毎日、それに乗り続ける事実に目を背けてはいけません。
新社会人からそれの人生が始まり、定年近くまで、続きます。
この「満員電車に乗る」という行為は、「訓練」として機能していると換言する事が可能です。
訓練とは、或る事を継続的に繰り返し、知識として覚えこませる事、身体に覚えこませる事、という意味です。
つまり、訓練は、人格形成を及ぼします。
例を挙げます。
日常的に満員電車に乗っているサラリーマン
と、
地方から上京したばかりで満員電車を初めて利用する人
を比較すると、分かりやすいでしょう。
サラリーマンは、いつもの慣れた行動なので、難なく満員電車に乗り込んでいきます。
一方で、
地方から上京したばかりで満員電車を初めて利用する人は、乗り方に戸惑うでしょう。
地方出身者が、車内の溢れた人達を見て、乗車するスペースが無いと判断しているところ、都市のサラリーマンは、当たり前のように、満員電車に乗り込んでいくのです。
これは、訓練を繰り返し、満員電車に乗る為の思考や身体性を身につけたからこそ、可能になるのです。
要するに、満員電車に毎日乗るという事によって、思考や身体性が形成されていくのです。
満員電車で形成された思考と身体がもたらす悪影響
習慣的に、満員電車に乗る事で、思考や身体性が形成されていく事は分かりました。
では、どういった思考形成がなれていき、そこで形成された身体性が、どんな問題を引き起こすのでしょうか。
具体的な例を挙げましょう。
・街を歩いていて、(歩道は十分な余裕があるにも関わらず)こちらに過度に接近してくるおじさん
・喫茶店に入って、(店内はガラガラであるのに)こちらに密着するような距離感の、真横の席に座る人
通常、人は他者との間で一定の距離感を保ちます。人と人との繋がりを円滑に進めるうえで必要な気遣いです。
満員電車の習慣化は、他者との距離感を狂わせます。
物質的な距離だけでなく、精神的な距離も誤らせます。
■ 物質的な距離の喪失
→ 知らない人に、過度に密着、接近する
■ 精神的な距離の喪失
→ 人が嫌がる事をしても、平然としている
満員電車の習慣化は、他者を風景化させるという作用が強く働きます。
距離の喪失により、自分という主体を通して世界を認識しようとする時、他者は、風景となります。
自分が群衆の一部となり、群衆に自分が組み込まれます。
それを踏まえると、実は、群衆は互いに互いを、風景としての他者として認める事になります。
満員電車の乗客は、認識主体であるがゆえに、誰でもが、物語の主人公であると主張をするかもしれませんが、他者との群衆的な認識相互作用が働き、実は、満員電車の乗っている人はもれなく、全員がモブキャラに過ぎないという結論に至ります。
すると、満員電車は、以下のような人も生み出します。
・コンビニや駅構内で、喧嘩をしているおじさん、大声で怒っているおじさん
満員電車を乗り続ける事によって、前述のような思考や身体性の形成がなされるのです。
都市は、満員電車に乗る人で溢れかえっている
上に挙げた身体性や思考の形成は、もちろん、満員電車に乗らなければ回避されます。
それでは、満員電車に乗らなければ良い・・とは、簡単にはいきません。
あなた一人が、満員電車に乗らなくても、都市生活を送るうえで、満員電車を利用している人は一定数存在するからです。
むしろ、街には、満員電車の常用者があふれています。
・街を歩いていたら、ぶつかってくるおじさん
・喫茶店でくつろいでいたら、真隣の席について身体をくっつけてくるトナラー
・コンビニで店員に説教をするサラリーマン
確かに、満員電車に乗らなければ、自分がこれらの人格保有者になる確率は減りますが、
都市生活において、これらの、満員電車によって形成された人格の保有者に遭遇する事を回避するのは、困難です。
都市での生活において、これらの人物に対する警戒を解く事は、できないのです。
満員電車が走り続ける限り、思考や身体が、決められた「型」に形成がされた人が、生成され続けます。
満員電車も、学校や病院、工場、軍隊、そして、監獄などと同様に、規律訓練型の権力が作用しているのです。