フリーランスのシステムエンジニアです。
東京の秋葉原・神田界隈の事務所兼自宅でシステム開発の仕事をしています。
フリーランスになってから、5年。
私は、フリーランスになってから5年間、まったく、電車に乗らない生活をしています。
「満員電車に乗りたくない!」
という話はよく耳にしますが、
私は、満員電車だけでなく、普通の電車も乗りません。
今では、電車(特に、大都市の電車)には、一切乗る気がしません。
会社員時代は、当たり前のように、毎日乗っていた電車。
その電車に乗る日常を絶って感じたことについて、書いてみようと思います。
電車に乗らない理由
私が、電車に乗らない理由は、次の通りです。
1. 電車内が、気持ち悪い
2. 電車に乗ると、性格が悪くなる
3. 電車に乗っている人達と同類になりたくない
4. 時間の無駄
ちなみに、1から4かけて、嫌な順に並べています。
最も嫌な理由は、「1. 電車内が、気持ち悪い」です。
電車に乗らない理由として、よく言われているのが、「4. 時間の無駄」です。
でも、私にとっては、「4. 時間の無駄」とよりも、「1. 電車内が、気持ち悪い」の方が嫌な度合いは上になります。
乗りたくない理由の詳細を書いていきます。
(1) 電車内が、気持ち悪い
シンプルに考えて、電車内の環境って、気持ち悪くないですか?
私は、潔癖症ではありませんが、
それでも、電車に乗ることは、気持ち悪い、汚いと感じてしまいます。
私が電車に乗らない、一番の理由は、「電車 = 気持ち悪い」からです。
どの辺が、「電車 = 気持ち悪い」なのかと言うと、
知らない人と身体を密着することです。
知らない人の体温や体臭、鼓動を感じながら、身動きの出来ない状況を過ごさなければなりません。
満員電車は、言わずもがなですが、
これは、混雑していない、普通の電車の場合も、同様です。
横長のシートに座ると、必ず隣の知らない人と腕などの身体が触れ合います。
触れ合った肌と肌。
肌から感じられる、知らない人の、生暖かい体温。
肌から感じられる、知らない人の、他人の鼓動。
これ、気持ち悪いと感じませんか。。
電車内の痴漢について
駅構内には、痴漢撲滅を啓蒙するポスターが、至る所に貼られています。
また、時折、痴漢に関連するニュースも目にとまります。
- 痴漢をされた人
- 痴漢で捕まった人
- 痴漢を疑われ逃げていく人
- 痴漢冤罪を訴える人
痴漢を取り巻く環境は、実に多様で複雑になっています。
痴漢は、痴漢をする奴が悪いので容認されるべき行為ではありませんが、
電車内の環境に関しては、懐疑的な面もあります。
例えば、
そもそも論として、
「痴漢をする事/痴漢をされる事」と「満員電車に乗る事」に違いはあるのでしょうか?
そう思えてならないのです。
満員電車は、知らない人との身体的接触が不可避だからです。
男性が両手で吊革を持っていたとしても、身体が、隣の女性に、べたっとくっついてしまう事は、容易に想像がつきます。
それに対して、男が「痴漢する意思は無かった」と言っても、心の内なんて、誰にも分かりようがありません。
現実的には、痴漢的行為(性的行為)が為されていたとしても、
法律的には、痴漢にならないって事が、起きます。
「性的欲望はない」「痴漢の意思はない」「手で触れていない」とか言っても、
満員状態に限らず、電車内で、知らない人に触れてしまう事は避けられないのです。
鉄道警察の方々が、満員電車の中で、痴漢に対して目を光らせています。
でも、滑稽に思えてしまいます。
それ以前に、車内では、知らない男女がみんな身体をくっつけあっている状況だからです。
要は、電車に乗らないのが、一番の対策なのです。
(2) 電車に乗ると、性格が悪くなる
電車に乗っている人達は、決まって、皆、同じような表情をしている
と思った事は、ありませんか?
特に、月曜日の朝の乗客の顔は、本当に同じような顔をしています。
「ああいうサラリーマンにだけは、なりたくない」
と思いつつ、電車に乗る人。
あなたも、同じような表情になっています。
満員電車に乗ると、性格が悪くなります。
別の言い方をすると、
性格が、特定の方向に、矯正されていきます。
なぜかと、言うと、
毎日、(満員)電車に乗るは、訓練や学習として、機能するからです。
例えば、
筋トレを想像すると分かりやすいでしょう。
筋トレを続けると、(たとえ、望んでいなくても)筋肉が付きます。
当たり前のことですね。
電車に乗るということを通じて、いやがおうにも、特殊な考え方や身体性が身についていきます。
地方から出てきた人、外国人、幼い子供たち、いわゆる、都市の電車に触れていない人たちの目には、不思議な光景に映るでしょう。
それらの人たちは、恐らく、都市の電車に乗車することは簡単ではないはずです。
地方から出てきた人が、満員電車を前に立ち尽くします。
「これだけ人がいては、もう乗れない」
それが自然な考え方だと、私も同意します。
しかし、都市の電車を日常的に利用している人は、このような考え方がいつしか消えてしまいます。
サラリーマンは、人が扉から溢れるほど詰め込まれた状態であっても、手慣れたように車内に乗り込んでいきます。
日常的に、それを経験することで、思考や行動が強化されていきます。
つまり、満員電車に乗ることは技術が要ります。
- 人がいるからもう乗れない
- 人がいてもお構いなしに乗り込んでいく
両者は、明らかに、対照的ですね。
(『電車に乗っているのは「人間」ではなく「モノ」である』という後節で、詳述しますが、)
そこに人がいても気にかけなくなる理由は、人間を人間として認識していないからです。
そして、そのような考えを肯定的に捉えるようになります。
一概に、性格が良い or 悪いを定義付けるのは難しいですが、
少なくとも、
都市の電車を経験し続けることで、以下のような性格が育まれていきます。
・他人への思いやりが欠如する(他人をモノとして捉える)
・困っている人がいても助けない。見て見ぬふり
・自分が良ければそれでいい
・受動性の強化
・キレやすい
・痴漢(モノ=性的対象)
心当たりはあるのではないでしょうか。
満員電車に乗る人で性格の良い人はいない?
「日常的に、満員電車を使っているけど、みんながみんな、マナーが悪いわけではない。礼節のある人はいるぞ!」
という反論もあるかもしれません。
しかし、日常的に、満員電車を使っていて性格が悪くならない人は、例外的です。
なぜ例外的かと言うと、このような状況下では、常に、性格の質を保とうと不断の努力をし続けなければならないからです。
その努力を怠った瞬間、満員電車の論理に飲み込まれます。その方がラクだからです。人間は、ラクな方向に向かう傾向がありますから。
スペインの哲学者、オルテガは、次のように言っています。
「私は、私と私の環境である」
「私」とは、「私」とその「環境」によって出来ています。
私と環境は、一体です。
環境が劣悪である場合、私の一部も劣悪に成らざるを得ません。
日常的に満員電車という劣悪な環境に身を置くと、自然と自分自身も劣悪な人間になっていくのです。
(3) 電車に乗っている人達と同類になりたくない
電車に乗っている人達に対して、どんなイメージがありますか?
- 死んだ魚のような目をしたサラリーマン
- 中年サラリーマン同士の喧嘩
- 缶ビールをハンカチで隠した酔っ払い
- 痴漢
- 痴漢をして、線路上を逃げている男の背中
- 困っている人を見て見ぬふり知らん顔をする大人達
- スマホを触り続ける人達
都市を走る電車の中は、こういった人達で、世界が構成されています。
私は、こういった人達の一員になりたくありません。
先日、次のような記事を目にしました。
高校男子が、50代の酔っ払い男性に、電車内で、理不尽にからまれた。
しかし、他の乗客は、みんなスマホを見たり、寝たふりをして、誰も、それを助けようとしなかった。
また、別のメディアのアンケートでは、「痴漢を目撃したらどんな行動を取るか?」という質問に対して、半数近くが「何もしない」と回答しています。
電車には、痴漢や酔っ払い、暴力など、犯罪や迷惑行為が、含まれています。
誰もが、犯罪や迷惑行為に関わりたくないのは、言うまでもありません。
同様に、目の前で発生しているこれらの犯罪や迷惑行為に対して、素知らぬふりを決め込む大人達とも、関わりたく無いのです。
つまりは、加害者も、それらを見て見ぬふりをしてやり過ごそうとする人達も、同類です。
犯罪や迷惑行為をする人、そして、それらに対して見て見ぬふりをする人達、
これらの人達が共犯関係になる事で、一つの劣悪な世界が形成させています。
そんな世界で暮らしたくないから、電車に乗らないのです。
こういった電車に乗っている人たちと一緒にされたくありません。
(4) 時間の無駄
「通勤移動は、時間の無駄」
これは、よく耳にする電車否定派の意見です。
例えば、通勤時間が片道1時間なら、
1日に、2時間、
月20日勤務と想定して、1ヶ月で、40時間、
1年で、480時間、
通勤時間に費やしていることになります。
確かに、時間の無駄ですね。
これに対して、日常的に電車を利用している人は、
・無駄に思える電車に乗っている時間も有意義に使える
・テレワークで家に篭っているより軽い運動になる
などの意見もあります。
確かに、毎日、2時間、3時間と通勤に時間を取られるのは、無駄だとも思いますし、
反対に、電車に乗っている間、本を読んだり、動画を見たりして、有意義な時間を過ごせるとも思います。
そもそも、
1日に、2時間、月20日勤務と想定して、1ヶ月で、40時間、1年で、480時間、を通勤時間に費やしていることになる(だから、通勤に時間を費やしたくない)
(実際に、定年退職までこのような生活を続けた人は別として)
このような理由で、通勤時間を否定する方に対して、果たして浮いた時間をどこまで有効に使えているのかと聞くと、答えに窮するのではないでしょうか。
そして、そのような方々は、通勤時間を、単なる思考停止の時間と捉えているように感じられます。
前述の通り、通勤時間は、軽い運動にもなりますし、学習の機会にもなり得ます。
単に、時間の無駄だからという理由で、電車通勤を否定する人は、それら以上の事を享受できているのでしょうか。
一見、時間の効率性を訴えた意識高い系然としていますが、蓋を開けたら、寝坊して何もやっていないという事は、往々にして、あるのではないかと思います。
私にとって、電車に乗らない理由における「時間の無駄」とは、確かにその通りだと思いますが、一方で、そこまで、頑なに乗らない理由にはならないですね。
やはり、電車に乗りたくない理由は、「気持ち悪い」や「性格が悪くなる」、「乗客と同類になりたくない」などの方が、よっぽど大きいです。
満員電車とサラリーマンは相性が良い
満員電車とサラリーマンは、切っても切り離せない関係にあります。
実は、満員電車とサラリーマンは、非常に相性が良いのです。
これは当たり前の事ですが、サラリーマンは、誰かに雇われる事で始めて、サラリーマンになります。
つまり、自分一人だけでサラリーマンには成り得ず、必ず、組織や集団の中への帰属が要求されます。
他者との関係上、サラリーマンには、社会性が必要不可欠なのです。
指示を出しても、それに従わない、
決められた時間に、命令通りにおとなしく、同じ作業を続ける事ができない、
それでは、仕事になりません。
なぜサラリーマンは、やりたくもない仕事を続けられるのか。
それは、「やりたくもない仕事を続けられる」訓練を受けているからです。
都市の電車は、訓練の場となっています。
電車は、単なる移動手段ではなく、乗客に対して「みんな同じ」を基盤として「忍従」や「諦念」を植え付ける為の装置として機能します。
フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、「監獄の誕生」の中で、パノプティコンという監視技法を提唱しました。
中央の高い監視塔から監獄のすべての部分が見えるように造られた円形の刑務所施設。イギリスの思想家ベンサムの考案。ミシェル=フーコーが近代管理システムの起源として紹介したことで知られる。
囚人を監視しつつも監視者の姿は決して見られない環境がつくり出されることにより、監視者がいなくとも,囚人は監視者の存在を意識せざるをえなくなる。
「日本大百科全書(ニッポニカ) 」より、一部引用
サラリーマンは、囚人であり、監視者でもあります。
電車内の相互監視によって生権力が働くことで、訓練は促進されます。
その結果、電車を経験することで、身体の規律化、画一化が施され、個性が剥奪されるのです。
電車に乗っているのは「人間」ではなく「モノ」である
知らない人と肌を触れたり、知らない人とキスでもするかのような距離まで顔を近づける事は、普通に、気持ちの悪い事です。
その他にも、他人の背中に体重を預けるように寄りかかったり、スマホを他人の顔の目の前に持ってきて操作したり……。
それでも、電車に乗っている人達は、知らない人と身体を密着させても、それに関して、さほど、違和感を挟みません。
なぜか?
それは、電車に乗っている他人のことを「人間」だと思っていないからです。
「人間」ではなく「モノ」と認識しています。
他人の事を「人間」だと認識していたら、とても、知らない人と身体をくっつけたり無礼な振る舞いをする事なんて出来ません。
そして、電車に乗る他者も、同様に、こちらを「人間」ではなく「モノ」と捉えています。
電車に乗っているのは、「人間」ではなく、人間と思われていた存在は全て「モノ」だった、ということです。
この事は、電車に乗らない私が、電車利用者に対して、高みから見下ろしている見解ではありません。
電車利用者が、電車利用者を、互いに見下す事で、構築される世界観です。
それは、電車に乗らない人からすれば、全く関係無い世界であります。
電車に乗る人は、皆、初めは、「人間」でした。
しかし、都市で電車に乗る生活を続けるうちに、「人間」では無く「モノ」へと変わりました。
だからこそ、人間的生活を送るうえでも、電車に乗らない生活を送るべきだと考えるのです。
路上飲みや立ち小便、野糞をするサラリーマン達
コロナ禍の影響で、路上でお酒を飲んでいる人が増えたと思いませんか。
私はオフィス街に住んでいますが、路上飲酒者を頻繁に目にします。
私は、路上で酒を飲む行為って、結構、恥ずかしい行為と思って見てしまいます。
でも、路上の酒呑みをしている人は「なんか文句あるか!」と言わんばかりに、堂々と、酒を飲んでいますよね。
特に都市の街中は、電車内の世界の拡張です。
周りの人を「人間」ではなく「モノ」と思っているから、社会的に恥ずかしいと思われている行為をしても、恥ずかしいと思わなくなってしまっているのです。
・朝方、散歩をすると、駅周辺の路上で、泥酔して地べたで寝ているサラリーマン
・酔いが回っているのか、人通りの激しい通りで、時折、缶酒片手に、性器を露出して、立ち小便をしているサラリーマン
・とある小さな公園では、ここで野糞をするな!という掲示がある。誰がそんなことをするのかと、話を聞くと、この近所に勤めているサラリーマンがよくここで野糞をしている、恐らく、酔っ払いているのだろう、とのこと
地べたで寝る、立ち小便、野糞……
これらの事って、社会的に見て、非常に恥ずかしい事ですよね。
小学生でも、これらが恥ずかしい行為であると理解しているから、こんな馬鹿な事はやりません。
でも、電車に乗り続けたサラリーマン(大人)は、一般的に恥ずかしいと思われることを平気な顔をして行い始めるのです。
電車を日常的に利用することで、モラルが無くなっていくのです。
マスクと満員電車
昨今のコロナ禍で、街行く人は皆、マスクを着用しています。
皆、コロナ明けを待望していますが、私は、街行く人の顔からマスクが外れる日は、まだまだ遠いだろうと思っています。
「マスクを着けなければならない」という圧力は、電車に乗る事で強化されます。
大雑把な言い方をすれば、
日常的に、電車を利用している人ほど、マスクを外すことが困難になっています。
反対に、電車に乗らない人は、日常においてあまりマスクを着ける機会がありません。
そう考えていくと、
「マスクを着けている人」 = 「日常的に、電車に乗っている人」
という具合に、マスクは、特定の階級の象徴として捉えることもできるようになります。
満員電車が続く限り、街行く人の顔からマスクが外れる日は、まだまだ先のことになりそうです。
「東京の人は冷たい」は誤り。正しくは、「電車に乗っている人が冷たい」
「東京の人は冷たい」
誰しも、一度は、耳にしたことがある言葉です。
果たして、本当に、東京の人は、冷たいのでしょうか?
答えは、ノーです。
東京の人は、全然、冷たくありません。
東京の人が冷たいのではなくて、
「東京の(日常的に電車に乗っている)人は冷たい」
が正解です。
前述の通り、電車に乗っていると、性格が改悪されていくからです。
電車に乗らない生活の交通手段
電車に乗らない生活で、移動手段は、以下のようなものを利用しています。
・レンタカー、カーシェア
・タクシー
・徒歩
・自家用車【2022/11/03追記】
自宅(秋葉原)を起点として、上野、大手町、神保町、皇居くらいなら普通に歩きます。
それ以外は、主に、車を使う、感じです。
仕事は、基本リモートワークで、自宅兼事務所で作業をしているので、通勤はありません。
たまに、クライアントの対面打合せが発生して、その時は、秋葉原・神田界隈ならば徒歩、遠ければ車で移動をしています。
私用で遠出する時も、車を使います。
もっとも、それほど、車を使う機会がないので、現状では、レンタカーやカーシェアで済ませていますが、
使用頻度が高まるようなら、車を購入して近所の月極駐車場を借りようとも考えています。
【2022/11/03追記】
レンタカーやカーシェアの使用頻度が高まったので、車を買いました。
近場の移動は、徒歩やタクシー、
それ以上の距離になると、自家用車、
という具合に、移動手段を使い分けています。
やはり、車は、好きな場所に、好きな時間に行けるので、便利ですよね。
現時点では、東京在住で、電車を使わなくても、困った事はありません。
会社勤めでも電車なし生活は可能だけど
フリーランスは、どこでも仕事ができます。
一方で、サラリーマンも、東京在住の電車なし生活は、条件は厳しいですが、一応、可能です。
一番簡単な方法は、会社の至近に住む事です。
サラリーマンは、通勤不可避ですが、通勤手段を、徒歩や自転車にすることで、電車が不要になります。
ただ、職住接近による電車回避は、職場が固定されていないと、実現できません。
したがって、外出を余儀なくされるような営業などの職種では、難しいでしょう。
営業回りを、自転車やタクシーで行うことは、そもそも、会社として想定しておらず、電車を利用するように指示されるはずです。(従わずに別の交通手段を使った場合、会社は交通費を支給してくれませんから)
SES常駐エンジニア
営業職と同じく、SESの常駐エンジニアも、電車なし生活は、困難です。
これは、派遣社員も同様です。
常駐エンジニアや派遣社員は、電車を利用する事が前提で、仕事を充てがわれるからです。
派遣社員の希望条件で、自宅から派遣先までの時間を聞かれますが、これは、電車を使った移動で考えられています。
「私は、自宅から徒歩10分以内の派遣先しか希望しません」
と言ったのでは、まず、派遣会社に、嫌な顔をされ、仕事を紹介してもらえなくなるでしょう。
(派遣社員の場合、電車通勤を前提としているのに、交通費が支給されないのは、おかしな話ですが)
おわりに
言葉は、「形式」と「内容」で成り立っています。
現代の東京では、それを「満員電車」と呼ばれていますが、
時代を変えれば、それは「アウシュビッツ行きの列車」になります。
「アウシュビッツ」と聞くと、眉を顰め嫌悪感を示す人も少なくありませんが、
「都市の電車」で、それと同じようなことが日常的に行われている現実があります。
要するに、言葉の形式は異なっても、内容は近しいのです。
「形式」の表面的なまやかしに騙されずに「内容」を捉えて、物事を熟考すべきでは無いでしょうか。
電車に乗らない生活は非常に快適です。
オススメです!
私は、今のところ、今後、電車に乗る予定はありません。